「も、もう少し、ゆっくり……」
応える男は初老と言うには少し早い。風采は上がらず身なりもも良くはない。片手にスーツケース、もう片手には少女の手を握っている。
本当に速く走りたいのなら両手を離すべきだろうが離さない。
全財産のスーツケースを捨てるほど思い切ることは出来ない。少女の手を離しては大切な何かを永遠に失ってしまう。自身の臆病にかけて手を離せようか。
ゴールまでは後わずか、そこまで何も捨てずにたどり着くことは出来るのだろうか。
傷つくことを恐れてすぐに逃げてばかりいた。だから、いつまで経っても弱いまま。
逃げてばかりいた報いを今、まとめて払わされているのだろうか? だとしても構わない、やり直せる機会を得られたのは幸運だと思っている。
だが……、だが、少しだけ待ってくれ。私の突き出た腹は走るのに向いていないんだ……。
少女は年の頃11か2と言ったところか。
幼いながら気品ある整った顔立ち。派手さはないが素材も仕立ても上質な衣服を身に付けている。
片手には身体に不釣合いなトランクケース、もう片手には初老の男性の手を握っている。
本当に速く走りたいのなら両手を離すべきだろうが離さない。
トランクケースは今の彼女の全財産。そして男性は少女を護るナイト。自身の矜持にかけて、手を離せようか。
ゴールまでは後わずか、そこまで何も捨てずにたどり着いてみせる。
事の起こりはこんな風だった。
ここの所、少しばかり客足が遠のいているが天候が悪いからだろうと楽観的に考えていた。
男は手品をメインとした2流のボードビリアンで、お情けに貰うお捻りで生活している。子供相手に売りつけるマジックの小道具も生活費の足しになっている。
その日もいつもと変わらない日だと思っていた。
折りたたみ式の机を広げ、カードマジックや物体消失マジックを見せた。少々危なっかしい手つきではあってもボールジャグリングをやって見せた。笑いよりも苦笑いが勝るような歌付の踊りを披露した。
できる芸はなんでもやった。
最後に得意のガンプレイ──トリガーガードに指をかけくるくる回したりジャグリングのように投げ回しながら銃を連射したり、およそ実用には向かないけれど派手で華麗な技だ──を披露したところ、2~3日の生活費にはなりそうなお捻りがスーツケースに投げ入れられていた。
わずかな紙幣とジャラつく小銭をかき集めて一休みの準備をする。少し時間は遅いがそこらの屋台で昼食でも摂ろう。
そこに駆け込んできたのだった。後になって思い返すと豆台風とも称したくなる強引さを実によく体現していた、と思う。
「追われてるの! 匿って!」
言いながら大きなスーツケースを男の足元に投げ出し、自分は芸人の足元、折りたたみ机の中に隠れる。
呆気にとられ、なんだと思うまもなく体格の良い3人の男が駆けて来た。腕っ節は強そうだが上等の身なり。少なくとも単なるゴロツキではないと知れる。
何より男達はいきり立っており、それが芸人を大変焦らせた。
「おい、こっちに少女が来なかったか!」
男達は慌てる芸人に怒鳴りつけるように問う。哀れ芸人は動転が極まってしまった。
「あ、うぅ……。た、種もしかけもございません!」
やっとのことで必死に出した声は喋り慣れた売り口上だった。ついでにマジックの際に物を隠すハンケチを裏に表にひらひらと返して見せる。
「ぶっ、ばはっはは!」
男達も緊張の極にあったのだろう。
あまりにも哀れで滑稽な芸人の様子に緊張の糸が切れ、笑いのツボにはまってしまったようだ。
漸くして笑いの発作が治まると、トゲトゲしさの消えた様子で改めて問い直してきた。
「悪かった、爺さん。脅かすつもりは無かった。もう一度聞くが少女がこっちにやって来なかったか? 大事なことなんだ」
「あ、あぁ。とんでもない勢いで駆けてきて向こうへ行ったよ。大きいスーツケースを引きずっていて、そいつで跳ね飛ばされるところだった」
まだ、爺さんと呼ばれる程の歳ではない!
密かに腹を立てていたので出鱈目を教えてやった。
「おい」
3人は顔を見合わせて頷くと芸人の指した方向へ駆け出した。
「取っときな!」
一人が高額紙幣を投げよこした。
芸人は紙幣を拾ってポケットにねじ込んだ。金に罪は無い。
「やり過ごしてくれてどうもありがとう、小父様」
少女は机の下から這い出て、芸術的な一礼とともに声をかけた。天上の鈴の如き妙なる音色。
幼さがその素晴らしさをいくらか割り引いているが、ただ普通に話すだけで音楽的であり3流楽師など足元にも及ばない。
「あぁ、ええと」
日常と乖離しすぎた突然の出来事に思考が着いて行かない。とりあえず発したのは間を繋ぐためだけの意味のない言葉。
それを押し止める様に少女が続ける。
「申し遅れました、私はマリアンヌと言います。悪漢に…… うぅん」
と、そこで一度言葉を切り一瞬考えてから言葉を続ける。口許に指を当てる様が愛らしい。
「えぇと、そんなには悪くないんだけれど。……とにかく! 追われているんです!」
「お、落ち着いて。まずは落ち着いてお譲ちゃん」
芸人は少女の前に手を突き出し、その上からハンケチを被せる。
「3・2・1…… そうら」
ハンケチを取り去ったその跡には一粒のドロップスが乗っていた。
そっと少女に差し出す。
「トパーズ? ……の贋作にしても酷い出来ですわね。ガラス玉の方がよっぽど本物に見えます。それと、子ども扱いは止めてください」
基本的には快活で感情豊かなのだろう、くるくると表情が変わる。今は緊張が大部分を占めているようだが。
「それは、貴方に比べたら少し人生経験は足りないかもしれませんが。これでも一人前のレディと呼ばれるだけの努力と経験は積んでいますわ」
4倍の年齢差が少しなのかとか、大人ぶる辺りが子供なんだがね、とか思う所は色々あるのだが表には出さない。
何しろ彼はボードビリアンで客商売も長い、人あしらいも上手くなければやっていけないと言うものだ。
「これは失礼しました、お嬢さん。仰る通り、贋作としてはガラス玉にも遠く及びません」
演劇の用に大仰に一礼し、謝罪のポーズを取る。
その後、内緒話をするように──けれど、馴れ馴れしく思われない程度に──顔を寄せてウインクを1つ。
「しかし、本物のトパーズにも勝る点もあるよ。……食べてごらん?」
ドロップスも知らないことに疑問も覚えるが表には出さない。
少女は不審に眉をひそめ、それでも恐る恐る口に運ぶ。
「パイン! パインの味がするわ。それに何も無いところからトパーズ……。いいえ、ドロップスを取り出したわ。小父様は魔法使いなの?」
その時、芸人は少女の言葉を取り違えた。
「そうさ、私はマジシャンさ。だからこんなことも出来る」
薔薇を一輪取り出して手渡す。
「素敵! きっと、これは特別な出会いなんだわ! お願いがあるの、追われているの。トリアズムまでで良いの。お願い、送ってください」
芸人は少女の懇願と期待の篭った瞳に背筋がぞっとした。
やめてくれ、期待は私には重過ぎる。
「ああ……。トラムかタクシーを使えば良いのではないかね?」
「だめよ。駅もタクシー乗り場も見張られているわ。歩いていくしかないの。けれど私は土地勘も無いし……」
少女はすっかりしょげている。その様子が芸人を傷つける。
「エレンに連絡はつけたからトリアズムまで行けば迎えが来ることになっているの。だから、どうかお願い」
芸人はとてつもない恐怖を感じた。
年端も行かない少女の寄せる期待、向けられる切実な瞳。それを裏切り、少女を傷つけねばならない、それが恐ろしかった。
痛烈な自己嫌悪を感じながらそれでも決定的な言葉を紡ぐ。それが自分をも傷つけるとしても。
「お嬢さん……。私はしがないマジシャンで、ただのボードビリアンなんだよ……。あんな腕っ節の強そうな男達の相手を出来るような人間じゃないんだ。すまないが他所を当たってくれないかね」
惨めな気持ちを抱き、すっかりしおれてしまった芸人を見て少女の目が鋭く細められた。少女は背筋を伸ばし、胸を張る。気迫に満ち、威厳をまとい、その姿を大きく見せる。
少女はすぅ、と息を吸み朗々と主張した。
その声には微塵の迷いも無く、確固たる信念と信頼に満ちている。
ああ、この少女は幼くとも自身の言う通り、一人前のレディなのだ。
「ボードビリアンというのが何かは知りません。けれど、貴方が魔法使いだと言うことは知っています」
よく通る声が美しい調べを伴って響き渡る。
「けれど、そんなことよりもっと単純なことよ。貴方は男性で、レディの前にいるの。全ての男性はレディの前ではナイトになるものよ」
それは力ある言葉。元々音楽的な声に強い意志が篭められ聞く者を引き込んで行く。芸人は今までどうしても手に入れられなかった種類の勇気が沸いて来ることを感じられずにはいられなかった。
全身に活力が漲っていくようだ。この少女は本物のレディだ。では、それに相応しい対応と言うものをする必要がある。
「きっと私も、ましな何かに変われるに違いない……」
小さく呟く。芸人は何かの予感を感じ覚悟を決めたのだ。
「お嬢さん、……いや、お姫様。何の力も無い私だがいくらかでも貴女の力になれるかもしれない。私からお願いするよ。どうか、同行させてくれませんか」
「本当に? 素敵! 小父様、ありがとう!」
その時の少女の表情を芸人は一生忘れまい。花が咲くように、とはこのことかと感動すら覚えた。
「トリアズムか、歩いて行けない距離でもない。少し時間はかかるがね。ふむ、追われているなら裏道を通るとしようか」
それまでよりも、幾分か背筋が伸びて心持ち胸を張っている。
「小父様は魔法使いなのですよね? 魔法で飛んでいくと言うわけには行かないの?」
「それはマジシャンと言っても、何の仕掛けも無しに瞬間移動なんて出来やせんよ。それに私はマジシャンと言っても一流と言うわけではないし。そんな大掛かりなマジックはちょっと無理な相談だね」
そこで違和感に気がついた。会話が噛み合っていない。
「お姫様? 君はもしかしてマジックを知らないのかね?」
一瞬きょとんとして、いかにも不思議なことを質問された
「もちろん、知っているわ? 物語の魔法使いはお爺さんが多いけれど小父様位の歳の方もいるのね。考えてみれば修行中だったりすれば、若い魔法使いがいてもおかしくないわね」
少し目線を上げて思い出しながら続ける。
「魔法使いはその知恵で人を助けたり、炎を出したり。悪い魔法使いだと人を犬や豚や蛙に変えてしまったりするわ」
「それは本物の魔法使いだね。私は……、偽者なんだよ」
「偽者……、なんですの?」
少女は意味を図りかねるように繰り返した。
「世界には本物もいるのかもしれないがね。今は魔法使い(マジシャン)というのは錯覚や盲点を利用して魔法みたいに見せかけるただの芸なんだよ」
「つまりは偽物、なんですね……。でも、私は本物よりも素晴らしい偽物があることを知りましたわ」
気持ちを整理するように、感じ入るように瞑目する。
しばしの沈黙の後、
「ドロップスも、小父様の魔法も本物よりも素敵でした。もし良かったら小父様の魔法、もう少し見てみたい……」
興味と期待に輝く瞳、こんな表情で頼まれては嫌とは言えない。だが、少女らしい愛らしさの裏側には歳に似合わぬ理知的な態度を秘めている。逃亡の身で不謹慎な願いをしているとでも考えているのだろう。
ああ、いけない。子供はそんな難しいことで悩むべきではないのだ。難しいことは大人が考えれば良い。危険があるなら守れば良い、その子のためにならないのなら恨まれても止めれば良い。
自分には出来ないかもしれない、その恐怖を押し殺す。そうだ自分はもう決意したのだ。今まで理由をつけて逃げてきた様々なもの、そのせいで染み付いた負け犬根性。恐らく最後のチャンスなのだ、逃げることから逃げてやる。
「歩きながらでも簡単なマジックなら披露できますよ」
言いながら持ち上げた手をくねらすと指の間にボールが沸いて出た。掌をひらりとくねらす度に指の間にはボールが増えてゆく。
それと同時に少女の目も見開かれてゆく。
「不思議! どうやっているの?」
「お姫様、マジシャンにはひとつルールがあるのですよ。けしてマジックの秘密は漏らさない。魔法は秘密のベールに包まれていてこそ不思議でいられるのですからね」
そんなものかという納得と少しばかりの不満。よく押し隠してはいたが唇がほんのわずか尖っている。ちらりと、その様子を眺めた芸人は巧みに笑いを押し殺す。
芸人が手を一振りするとボールは1つに消えた。
「お姫様。続きはまだこれからですよ」
高く投げ上げたボールを鮮やかにキャッチする。2度、3度と投げるうちにボールの数は増えていく。ひょいひょいと鮮やかにジャッグルする。
右に回し、左に回し、時には背中を通し、目まぐるしく飛び交うボール。時に数を減らし、また増やしてジャグリングは続く。
「さて、お立会い」
ジャッグルを続けつつボールを地面にも叩きつける。上下左右の回転に加え、地面の反動をも利用した複雑な軌道。何が何だか解らないほどボールが跳ね回る。そして唐突なフィナーレ、跳ね回っていたボール一瞬にして全て掻き消える。
「いかがでしたか? お姫様」
「す……ごい」
少女は数瞬ばかり呆けて、陶然と呟いた。
「素敵ね。本当に素晴らしいわ、こんなの見たこと無い」
そして、自分の声にふっと意識を取り戻し、元の澄まし顔に戻った。
「小父様、その『お姫様』って言うの、……恥ずかしいです。マリィと呼んでください、友達にはそう呼んで欲しいの。今はエレンくらいしかそう呼んでくれる人はいないけれど」
「私などが友達で良いのかね?」
「小父様は特別な方ですもの。私のナイトで魔法使い。是非に」
「ふむ。マリィそれでは行こうか」
少しの会話の後、再び歩き出す。ちょん、と触れ合った手と手をどちらからとも無く握り合う。
「今、どの辺りなのでしょう。後、どのくらいで着くのでしょう」
「そうだなぁ、小一時間も歩いたから3分の2くらいは来たのじゃないかな。もうトリアズムへは入っておるはずだよ」
「もう少し……、ですね」
「もう少し、かね」
それまでの浮かれた気分も落ち着いて、しんみりとした穏やかな時間がやってくる。言葉を交わさずとも気持ちが通じるように感じる。
無事ここまで辿りつけたのは喜ばしい。が、このまま何事も無く目的地について別れてしまうのも少しばかり寂しいか。
いやいや、逃亡中の身なのだ。何事も無いのが一番に決まっている。
「さて、これからどちらへ向かえば良いのかね?」
感傷を振り払い目的地をたずねる。
「あ、3番街の方へ」
「……行こうか」
お互い、自然に手を取り合う。語りたいこと、伝えたいことは多くとも残された時間は少ない。ならば言葉を交わすより繋いだ手を通して通じてくる気持ちを大事にしたい、それが今の二人の素直な気持ちだった。
「3番街へ行くとなるとここいらで表通りに出ないといかんな。ふーむ、待ち伏せの危険がありそうだ」
繋いだ手を通して少女がわずかに身を固くしたのが伝わってくる。
芸人とて緊張はあるが少しでも少女を安心させようと、ことさらに軽い口調で告げる。
「大丈夫。例え待ち伏せがあろうとも2ブロックくらいなら守り通して見せるよ」
「はい。信じています、小父様」
恐怖を感じていても精一杯の笑みで信頼を表す。
芸人もまた恐れていた。失敗することに、今まではその恐怖から逃げ続けていた。けれど、今は信頼を裏切ることの方がより恐ろしい。
「さて大通りに出るよ、狙われるとしたらここだろう。その時は私が時間を稼ぐ。その間に君は待ち合わせ場所にたどり着くんだ」
「小父様を置いて?」
「なーに、追っ手を撒いて私も追いつくさ」
まさにその時だった。噂をすれば何とやら黒塗りの車から見覚えのある3人組が降りてきたのは。
「爺さん! よくも騙してくれたな!」
怒声を辺りに震わせて3人が詰め寄ろうとしてくる。
その後ろから3人組の雇い主であろう、意志の強そうな男性がやってくる。鋭い眼光、引き締まった口許、今にもステッキを握り潰しそうなその姿は頑固を形にしたようだ。
「マリアンヌ、もう逃がさんぞ!」
「逃げるよ! マリィ」
芸人はとっさに手品で使うボールをありったけ取り出すと男達に向かって投げつけた。ぶつけるためではない足止めのためだ。
結果の確認をせずに芸人はマリアンヌの手を引き走り出した。
背後から上がる男達の悲鳴。芸人の狙い通り追っ手はボールに足をとられたようだ。これで少しの時間を稼げる。
「小父様、急いで!」
少女の叱咤を受けて、本人としては全力疾走のつもりで走る。
実際には息を切らしながら、もつれる足をどうにか動かして無様によろめき進んでいると言ったところか。
「も、もう少し、ゆっくり……」
無理だと言うことは解っている。だが、それでも身体がついていかない。覚悟の決め所だろう。
「マリィ…… このままでは追いつかれてしまう。ここは何としても…… 私が食い止める。行くんだ、君一人で」
「小父様……?」
「けして振り返るんじゃないよ。……私の魔法で何とかしてみせる!」
守ると決めた少女、手を繋いでいるままでは守りきれないと解る。けれど手を離すことで守れるのだろうか? 恐ろしい、恐ろしい。
だが、共に行動すれば確実守りきれないと解っている。ならばどれほど恐ろしくても単独行動にかけるしか無い。
「行くんだ!」
手を離した瞬間の喪失感。失敗への恐怖とそれを押し殺すだけの決意。感情の振幅に押し潰されそうだ。それでも踏み出してしまった。
掻き乱れた心のままそれでも身体は為すべきことを実現するために動いている。少年時代のヒーロー、ブラウン管の向こうの刑事。彼は巨悪を前に一歩も引かずに闘った。スーツの裾を跳ね上げ、銃を引き抜き様に連射する。少年時代の芸人もその刑事の真似をして抜き打ちの訓練を重ねたものだ。その時の特訓の成果で今もガンプレイを芸として披露できる。
身体に染みこませた動作が悩みも躊躇とも関係なく、自動的に反応した。上着の裾を跳ね上げ、腰の後ろのホルスターから銃を引き抜く。両手でしっかとホールドし、標的を照星に捉える。
高々と響く銃声。だが、血飛沫を上げたのは芸人の方だった。
「な、なんだ? どう言うことだ? わしは知らんぞ!」
追っ手の混乱が伝わってくる。
突如として街角で生じた銃撃戦、飛び散る血しぶき。通りは混乱に見舞われた。願わくば、この混乱を利用して少女が目的地につけるように。芸人はそれだけを思い願った。
「どういうつもりだ! いい年をしてやって良いことと悪いことの区別くらい付かんのか!」
芸人は警察署で厳重な説諭を受けていた。
「他人の迷惑くらい考えろ。銃声に血糊、街中であれだけの大騒動を起こしおって悪質にも程がある! お前の引き起こしたパニックでけが人が出なかったのが不思議なくらいだ」
「……その、全くもって面目ありません」
銃の暴発を装った大掛かりなマジック。
いつも準備だけはするのだが集まる客層、演目の構成からして拍手を受けるよりパニックを引き起こす、と結局準備だけで終わる演目。
マリアンヌを逃がすために芸人に出来たのはそれだけだった。人数でも腕力でも勝ち目の無い相手。周囲の状況も追手も巻き込み混乱を引き起こすことだけだった。
ふと思う。嫌いだった自分を少しは変えられただろうか。子供のまま成長を仕切れなかった心は一歩でも大人になれたろうか。
少女の願い、それまでの自分なら無視していただろう。その自分がか弱い少女の頼みとは言え面倒を引き受けた。
嫌いな自分を一歩超えて少しは変われたろうか。か弱い少女を守るのは大人の仕事だ。マリアンヌを守ることで、なり損ねた大人に少しでも近づけたのだろうか? ……多分、そうだろう。いつもまとわり着いていた劣等感、自分を嫌う気持ちは薄れていた。
自然と笑みが浮かぶ。
「何をニヤついている!。貴様は騒乱罪に加えて誘拐で訴えられているんだぞ。裁判まではここで拘留となる。色々と覚悟はしておくんだな」
刑事と芸人、どちらも溜息をついた時だった。
「先輩」
「なんだ、取調べ中だぞ」
「はっ、身元引受人が現れました。また、被害者が訴えをり下げたいと申し出ておりまして」
「……確認してくる。しばらく大人しくしていろ」
「確認が取れた、正式に釈放だ。迎えの方が来ているのでさっさと行きたまえ。待たせないようにな」
狐につままれたような気持ちだった。自分の身元を引き受けるような人物の心当たりも無い、迎えと言っても誰がどこへむかえるというのだ。
取り調べの際に取り上げられた荷物を受け取り、迎えの人物のいると言う駐車場へと向かう。
「お待ち申し上げておりました。主人の下へ丁重にお連れする様、申し付かって参りました。お支度が整っているようであれば早速にもお連れいたしたいのですが?」
待っていたのは豪華なリムジンと慇懃で腰の低い執事然とした人物だった。もちろん、面識どころかこんな扱いを受ける心当たりすらない。
腑に落ちないが丁重に指し薦められるままに座席に腰を下ろした。座席のシートは柔らかく、身体を覆い包むように実が沈む。今まで味わったことの無い高級な設えがこれからどうなってしまうのだろう、という不安を煽りたてる。
走り出したときと同様、停止した感覚も無かった。これが高級車の性能であり、質の高いサービスなのだろう。結局、15分ほどで目的地へと着いた。ハンドルを握っていた執事が車から降りて客席のドアを開けるまで車が止まったことに気づかなかった。
「こちらへどうぞ。主人が待っております」
誘われるままに着いていった先には豪邸と表現するほかない立派な建物があった。芸人は呆然と立ちすくみ、唖然とするばかりだった。
自分が目指していたゴールがこんな豪邸だったとは。何を目指していたのか、明確なイメージがあったわけではない。
イメージしてがあったわけではないが、あまりの意外性に呆けていた。しばらくの間、呆然と突っ立っていた。どれくらいの時間そうしていたろう。そう長くは無かったはずだ。視界の端に人影を捕らえ、芸人は我に返った。大小取り混ぜた3人の人影。
「小父様ッ!」
駆け出そうとしたマリアンヌを止めたのは一番大きな人影。3人組に指図していた意志の強そうな男。
「マリアンヌに触れるなッ! 貴様如き卑しい身分の人間などマリアンヌに近づくことさえも許されることではないのだ! 年端の行かない子供をかどわかす様な真似をしおって!」
鋭い檄に一瞬で身が竦みあがり、嫌な汗が吹き出す。
空気の粘度が増し、満足な呼吸が出来ない。何か言わなければ、と空気を飲み下す。
ピシィッ
空を裂く激しい音。それはその場にいた3人目の人物がステッキを振り下ろした音だった。
「ヘンリー、まだ解らないの。人を身分で差別するような真似はけして許さないと教え込んだはずよ。私たちの顧客にはどんな身分の人もいるの。偏見や蔑みなど持ってはならないと何故わからないの」
小柄な体格ながらその身体から滲み出る気迫、威厳はその場の誰よりも今まで見てきた誰よりも大きいものだった。
「ましてや、ヘンリー。この方は困っているマリィを善意から助けてくださった恩人なのですよ。マリィが家出をしたのは貴方の責任。破ってはならない約束を破った貴方が悪いのじゃありませんか。そして、マリィを取り逃がしたのは貴方の雇ったボディガードの能力の問題。マリィを取り逃がしたことも問題なら、素人一人にあしらわれるのも問題ね。それでプロと言えるのかしら」
滔々と告げるその姿には見覚えがあった。美しく伸びた背筋、様々な経験を重ね、綺麗に年輪を刻んだ相貌。
「ミズ、エレノア・ゴートレック!」
亡き夫の遺志と事業を継ぎ、今日の繁栄を築き上げた立志伝中の人物エレノア・ゴートレック。その人自らが今目の前にいるのだ。
「ヘンリー、こちらの方はマリィの恩人なのよ。お礼の一つも申し上げるのが当然ではなくて?」
「ぐっ、貴様……。貴方のせいで助かった。礼だけは言っておく」
「全く……、誰に似たのかしら。言葉遣いの一つすらなってないわね。ヘンリー、良いこと? 貴方には後でたっぷりと言っておくことがあるから待ってらっしゃい。もう行って良いわ」
見覚えのあるはずだ男性はゴートレック財団、現党首ヘンリー・ゴートレック。新聞やテレビジョンにもよく登場する顔である。新聞も取っていなければテレビジョンも持っていない芸人には縁の無い人物ではあるが、それでも雲の上の人物として知っている。
そのヘンリー・ゴートレックがまるで子供のようにあしらわれている。格の違いを見せ付けるまさしく立志伝の言うとおりの人物であった。
「この度はマリィが大変お世話になりました。些細な親子喧嘩を発端に、父親の目を覚ますためにマリィは私の所に家出を企んだのです。それがこんな大事になってしまって……。貴方にご迷惑をおかけすることになってしまいまして。そしてマリィが大変お世話になりました」
「そんな! 勿体無い、顔を上げてください私ごときにそんな礼など」
とすん、と芸人の腰の辺りにぶつかった物がある。
「小父様、無事で良かった。後ろで大騒ぎがあったことは解っていたのだけれど後ろを振り返ったら小父様が必死で作ってくれたチャンスを壊してしまいそうで……。エレンにあってすぐ、小父様を助けてくださるようお願いしたのだけれど、小父様は捕まってしまっていて……」
「あぁ、マリィ。君が気に病む事なんて何も無いんだよ。私は別に何か酷い目にあったわけでなし。君を守りぬけた、という誇らしい結果があるだけさ」
しばらく二人の様子に目を細めていたエレノアが口を開いた。
「マリィは沢山貴方のお世話になったようですね」
しみじみと、そして柔らかく言葉を続ける。
「ただお世話になった人、というだけではなく信頼の置けるお友達として認めたみたい。私とマリィは祖母と孫という関係以上に仲の良いお友達という関係なの。貴方がマリィのお友達なら私ともお友達というわけね」
マリアンヌは花が咲いたように微笑む。
「素敵、その通りだわ。小父様がエレンとお友達になるなんて素敵よ。そうだわ小父様、エレンにもあの魔法を見せてあげて。あの、ドロップスを取り出す魔法を!」
芸人は一瞬躊躇したが別に躊躇うほどのことでも無いと気づいた。
「では行くよ。それ!」
ハンケチをどけた掌の上にはオレンジ色のドロップスが2粒。マリアンヌは左側一つを口に入れ、感嘆の叫びを上げた。
「今度はオレンジ! 色々種類があるのね、小父様。エレンも早く、素敵なのよ! とっても」
マリアンヌの様子に微笑みつつ、苦笑と共にドロップスを差し出す。形ばかりのことだ。エレノア・ゴートレックともあろう人がこんなものを口にするわけもないが、薦める真似だけでもしなければマリアンヌが傷つくだろうと思ったからだ。
「子供の駄菓子でお口に合うはずもございませんが。お気に召さないようであればたちどころに消してご覧に入れます」
掌にハンケチを被せようとしたその直前、鮮やかにドロップスをさらったものがあった。
「まぁ、ドロップスなんて口にするのは何十年ぶりかしら」
好奇心に輝く瞳は確かにマリアンヌと同じ物だった。なるほど、マリアンヌとなら良い友達になれるだろう。
しばらくドロップスを転がした後、エレノアが切り出した。
「マリィがお世話になった方ですものね。何かきちんとしたお礼をしなければいけないわ」
それは誰かに告げるというよりは自分の考えを整理するために口に出したような台詞であった。
エレノアがさらに深い思考に入る前に芸人は声をかけた。
「ミズ・エレノア・ゴートレック。貴女は私がマリィの友人で、私がマリィの友人であるなら貴女とも友人である、そう仰いましたね?」
怪訝そうな顔をしながらもエレノアは首肯した。
「ならば、礼などと言わないでください。友人が困っているなら見返りなど考えずに力を貸すもの。そうではありませんか? マリィ、君なら解ってくれるだろう? 私がどうして欲しいのか」
それに芸人はすでにマリアンヌから沢山の物を貰っていた。これ以上を望むのは欲が深いというものだ。
「そうね。小父様はお金とかお礼を期待して助けてくれたわけじゃない。それは解るわ。お友達だから手を貸してくださったのよね。お友達へのお礼にお金で応えるのはきっと失礼、なのよね。心の篭った言葉、それがお友達への一番のお礼なんだわ」
マリアンヌは居住まいを正して正面から芸人を見据えると、できる限りの心を篭めて言った。
「小父様、本当にありがとう。助けられただけじゃないわ。今日一日、本当に楽しかった」
マリアンヌはいったん言葉を区切って、呼吸を整えてから続けた。
「ねぇ、小父様。小父様が私にしてくれたことに私はほんの少しだけお返しが足りないと思うの。だからちょっと耳を貸してください」
芸人の袖を引いて、身長差を埋めるとマリアンヌは耳に顔を寄せ、そのまま耳を通り過ぎると軽く頬に口付けた。
「おほっ」
芸人は突然の奇襲に思わず奇声を上げてしまった。
マリアンヌは少し頬を染め、人差しを口に添えつつ言った。
耳まで真っ赤になって硬直する芸人。「まぁ」と言って口許を手で覆い隠したまま楽しそうに二人を眺めるエレノア。そこには居心地の良い空気が流れていた。
「そうね……、そうなのですね。これからもマリィの良き友人でいてくださいますか? それと友人にはエレンと読んで欲しいの。ミズ・エレノア・ゴートレックでいるのは公式の場だけで沢山」
「もちろん。マリィは大事な友人ですからな。そしてエレン、貴女ともよい関係を築いていきたいものです。二人とも、これからもよろしく」
それから数年が過ぎた。
3人の人生のレールは行く末もバラバラで交わることはほとんど無かったけれども、時折は交差することもあった。
自信をつけた芸人は3流芸人から1流半くらいまでには腕を上げ、そこそこの大きさの劇場でマジックショーを行うこともあった。初公演の日は事業を引き継ぐべく勉強に勤しんでいるマリアンヌがわざわざ時間を作って観覧に来てくれた。
気丈で、元気に見えたエレノアも寄る年波には勝てずに亡くなった。
芸人も全ての仕事を放り出して葬儀に駆けつけた。
エレノアの死が財界にもたらす影響を憂慮する財界人の中で、どれだけの人物がエレノア本人を悼んでいたろう。
芸人は一人その場を離れ、ただの友人として思い出をよすがにエレノアを偲ぶことにした。長い付き合いではなかったし、やり取りも手紙がほとんど。顔を合わせることなんてほぼ無いに等しかったが大切な友人だった。貰った手紙の記憶を辿りながらエレノアに思いを馳せる。豪奢だが上辺だけの儀式より、自分とエレノアの別れには落ち着いてゆっくりと思い出を語り合うような別れが似合っていると思った。
いつの間にかマリアンヌも隣に来ていた。表舞台は喪主のヘンリーに任せ、この場でただ二人、真にエレノア偲んで泣いた。
それからまた数年が過ぎた。双方、忙しくて自由に会えるような立場ではなくなっていたがそれでも時折手紙を出したり友人としての交流は続けている。マリアンヌからの手紙を受け取る都度、あの日へ思いを馳せる。
マフィアに追われていると思われた少女との逃避行。
それは命の危険すら感る人生最大の危機だったが充実していた。
真相を知った後、今では自分を変える人生最後のチャンスだったのだ、と思うようになっていた。
あの時、途方に暮れた少女に手を差し伸べなかったら……
人生に”もしも”はありえないがそれでももしも手を差し伸べなかったら、今こうしてはいないだろう。ただの負け犬として地べたを這いつくばっているに違いない。
何故あの時、手を差し出せたのだろう。
「なんだ、本当の魔法使いはミズ・エレンだったんじゃないか」
途方に暮れた少女、マリアンヌを連れて黄色いレンガ道を西に向かって歩いた。その短い旅が臆病な自分の心に勇気を与えてくれた。
「ライオンという柄ではないと思うのだがねぇ」
幼い少女を見捨てるような最低の人間にならずに済んだばかりか、旅を終えても残った勇気はその後の人生にも影響を与えた。自信が余裕を生み、芸を大きく見せる。
元々腕自体は悪くなかったために評判が評判を呼び、それなりの人気も出ていた。
人生最大の危機と思った厄介ごとは終わってみればなんてことの無いように思えた。そればかりか自分の成長のために必要だったとさえ感じる。振り返れば、人生で最も充実していた数時間だったかもしれない。
昨日届いたマリアンヌからの手紙には3人目の子供が生まれたことが記されていた。家の中が落ち着いたら、一度様子を見に行こう。上の二人の子供たちには新しいマジックを、マリアンヌにはドロップスをお土産に。
夢想しているだけで楽しくなってくる。
二人がまだ、壮年であり、少女であったときの大冒険。会う度にいつも、何度でも語り合うのだ。
人生で最も輝いた数時間。けして忘れることは無いだろう。
人にひけらかすような話ではない、心の宝箱にしまって時々、当事者のみで笑いあう、そんな思い出だ。
今度少女に会ったら話してみよう。少女に会う前の自分がどんなであったか。少女との冒険でどんなにも世界が変わって見えるようになったか。
少女は笑ってこういうのだ。
「あら、小父様。小父様が私にしてくれたことがどれだけ大事なことだったか。私だけが知っているんだわ。それよりも、いつものあの魔法を見せてくださらない? 小父様に会う楽しみの一つなの」
芸人も期待に応えて言うのだ。
「さて、皆々様。ここに取り出したるは種も仕掛けもない一枚のハンケチ。これなるは悪漢煮追われる一人の少女が繰り広げる大冒険の始まりを彩る実に摩訶不思議なハンケチであります」
余人にはただの手品であっても、同じ冒険を繰り広げた二人にとっては思い出の会話に他ならない。
さて、今度はどんな手品で何について語ろうか? 浪費した時間を取り戻すことなど出来はしないが今からでもより好ましい未来を築いていくことは出来るだろう。
人生は長く、息切れすることもある。それでも諦めさえしなければいつでもやり直しは可能だ。
逆に人生は長い、と高を括れば無為に時は過ぎてゆく。
人生を長くするも短くするも、充実させるも無為にするも人生の主人公である自分自身の心がけ一つなのだ。
生きる事を楽しむ、その簡単なことに気付くのに時間をかけてしまった。少女との出会いが無ければいまだ気付いていないだろう
だが、まだ遅すぎはしないはずだ。
人生の危機を乗り越えてなお、正面から問題に向かい合い、困難を乗り越え、人生を楽しもうというタフさ。少女との出会いが、降りかかった危機が理想の自分に一歩近づけてくれた。人生の終盤になってから気付く皮肉、そして人生の終盤であろうと理想の自分へと近づいてゆける快楽。少女との出会いが、降りかかった危機が理想の自分に一歩近づけてくれた。
少女……、マリアンヌと再開した芸人も期待に応えて言うのだ。
「さて、皆々様。ここに取り出したるは種も仕掛けもない一枚のハンケチ。これなるは悪漢煮追われる一人の少女が繰り広げる大冒険の始まりを彩る実に摩訶不思議なハンケチであります」
ハンケチをどけたそこにはドロップスと共に希望が乗っている。この先にどんな困難が待ち受けていようと手の平のドロップスと希望があれば立ち向かってゆけるのだ。
もう、迷いはしないだろう。どんな困難であっても人生の危機にはなりえないだろう。少女も、芸人も求めていたものをその手に掴んだのだ。
Fin.